
乙武洋匡@h_ototake
ちなみにね、私が生まれた50年前には、まだエコーの技術がそこまで発展・普及していなかったんだって。だから、両親は私が生まれてくるまで、「四肢がない」なんて知らなかった。
大人になってから、母に「ねえ、四肢がないと知ってても生んでた?」と聞いたら、苦笑いで「うーん……どうかなあ」だって笑
俺、生まれてなかったかもしれないんだよね。
生きる価値が、なかったかもしれなかった。
だから、判断できないと思うんだよね。
「生きる価値」なんて。誰にも。

乙武洋匡@h_ototake
やまゆり事件(相模原障害者施設殺傷事件)から、今日で10年が経ちました。 10年という月日が経っても、この事件の背景にあるさまざまな社会の課題や人々の感情をうまく消化することができていません。 正直に言えば、一生をかけても消化できる気がしていません。 「障害者は生きる価値がない」 植松聖は、そう考えていました。 そんな植松聖に、生きる価値はあるのか。 そもそも「この人には生きる価値がある」「この人には生きる価値がない」などと、誰に決める権利があるのでしょうか。 そう問われれば、誰もが「そんな権利など誰にもない」「すべての人には生きる価値がある」と答えるでしょう。 でも、それは本心でしょうか。 「これ以上、障害者が生まれてこないようにする必要がある」 社会のために良かれと思ってのこととは言え、最近ではSNS上で何の臆面もなくこうした発言をする方が増えてきました。 どうやら、私たちには「この人は生きる価値がある」「この人は生きる価値がない」と決める権限を持っているようです。 あなたは、生きる価値がある人間ですか? ※そういえば、6年前にこんな文章を書いたので貼っておきますね。お時間のある方はぜひ。
(3日前)
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